奇跡の出会いと大きな感謝

こんにちは
3月に入り暖かくなって
花が咲き始めてきたら
鼻水の季節になった
リーガルシューズ岡崎店です

同じ「はな」なんですけどねえ。

昔の人からは
花粉症なんて聞いたことがない
と聞くのですが
これは本当に杉だけのせい
なんでしょうかねえ。

さて、ちょっと長くなりますが
昔の人の話を。

大正14年生まれ。
石川県能登半島の神子原出身

(神の子の原っぱと書くので
何年か前に
ローマ法王にコメを送って
返事をもらったと
話題になった場所です。

これは「ナポレオンの村」という
テレビドラマにもなったようです)


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そこの地主階級の農家の長男が
私の父です。

祖父は農業を小作に任せて
運送会社を経営しており
それなりに
羽振りは良かったようですが

戦争で
トラックを軍部に挑発されて
大損をしたようです。

当時の父は
山奥の農村出身にしては珍しく
金沢の獣医系の大学まで進み
学徒動員で出陣を待っていたところに

終戦

行ったら間違いなく
大陸で馬の世話をしながら
死んでいたであろう
ギリギリのタイミングでした。

父から戦争の話は
殆ど聞いたことがありません。

まだ私の知らない話も
多そうでしたが
どうやらあまり
言いたくはなかったようです。

戦後は農地開放で
土地を放棄させられて
それでも残った家業を
弟に継がせて自分は農水省に。

ある意味勝手な長男です。

農水省職員として
なぜか網走で
家畜類の検査の仕事を
やっていたそうです。

当時は毎日のように
検査で合格した牛や豚を
GHQ行きの貨車に乗せる
という仕事をやっていました。

 

もう時効でしょうから
書いてしまいますが
当時の貨車は
行き先をチョークで書くという
単純なものであり

チョークなものだから
雪で文字が消えてしまい
行き先がわからなくなって
迷子になる貨車も
多かったそうです。

それを利用したかどうかは
知りませんが

GHQ行きのチョークを書き換えて
東京のヤミ業者に流して
一儲けをしたとかしないとか…

そんな話も聞いています。

それ以外にも
どんなツテだか知りませんが

当時配給制だった紙を
大量に調達できた仲間とともに
東京の印刷会社に送りつけ
ここでも一儲けしており

そのうちに東京で
印刷会社を始めた仲間と
仕事をしているうちに

経営者がいなくなったので
仕方なく新宿の印刷会社の
社長に収まりました。

 

 

次に昭和3年生まれの母の話を。

宮城県の山の中出身。
米沢に近かったとも聞いています。

祖父は警察官で
母が子供の頃に
台湾の警察官に任官され
一家で台湾に移住。

当時の台湾は日本領でした。

10年近く
台湾の台中に住んでおり
現地の女学校出身です。

当時の風潮として
女学校に行けるというのは
あまりないことです。

台湾だからこそ
だったかもしれません。

とはいえ
植民地の警察官ですから
それなりに裕福な暮らしか
と思いきや
子沢山でそうでもない暮らしでした。

17の時に終戦
引揚げをしてきました。

母はこの時期の話も
あまりしたがりませんでした。
言いたくない苦労も
あったのでしょう。

台湾で
子供の頃に過ごした時の話は
よくしてくれたし

当時の友達も
よく遊びに来ていたり

私も何回か
台湾に連れて行ってもらいましたので
現地に住んでいた事自体は
とても良い思い出
だったようです。

引き揚げてきた後
東京で仕事についたようです。

私が物心ついた時には
叔父・叔母は東北各地にいましたから
恐らく一人で
東京に行ったのでしょう。

母からは
この時期の事情も聞いていません。

ある時
母が電車に乗っていると

突然

「こんな美人は見たことがない!
ぜひお付き合いしてください」

と知らない男に言われました。

 

それが父なのだそうです。

 

その話を聞いたときには
「いきなりナンパかよ!」
と思いましたが

見合いがほとんどの時代に
よくやったものです。

その後、なんやかやあって
結婚に至るようですが

どこへデートに行ったとか
何をやったとか
そんな話も
全然したがりませんでした。

それなりのロマンスも
あったでしょうに。

大正~昭和初期の戦争世代って
そんな感じなんですかね。

 

結婚後は
兄が生まれ
姉は生まれたけどすぐ亡くなり
私が生まれたわけです。

石川県出身で網走にいた父と
宮城県出身で台湾にいた母

これは当時の日本の
一番北と南にいた人が
東京で出会ったという
奇跡のような話です。

その奇跡の結果
53年前の今日に
私が生まれました。

両親ともに
何年も前に他界しましたが

どちらも80歳を過ぎてから
家の畳の上で
死ねたのですから
それなりに良かったかな
と思います。

ふたりとも病院では
死にたくなかった
ようですから。

今はそんな両親の
奇跡のような人生と
出会いに感謝しています。

そして
今の53歳の私がいられるのも

両親と
私が生まれてからも
見守ってきてくれた
たくさんの人のおかげです。

もし

ご自身の両親から出会いとか
それまで
どのように生きてきたかを
聞いていない人がいたら

早めに聞いておいたほうが
良いですよ。

私は
もっと聞いておけばよかったかな
と思っています。

あなたの知っているご両親は
あなたが生まれてからの
ご両親なわけですが

あなたに出会う前の彼らにも
子供の頃があり

恋愛をしたり

失恋をしたり

映画を見て涙したり

100点とって褒められたり

0点を隠したり

学校をサボったり

友達と町へ遊びに出たり

受験で苦労したり

笑ったり

一晩中酒を飲んだり

上司のぐちを言ったり

結婚を決意したり

子供を作ったりしたわけです。

それらとても大事な
宝石のような話を聞くことは

自分自身の
アイデンティティの確認のためには
必要なことです。

本日は
たくさんの方から
バースデーメッセージを
いただきました。

ありがとうございます。

私はこれからの人生を
「なすべきことをなす」
ために生きていきたい
と考えています。

これ、スピルバーグが
言っていたことなんです。

インタビュアーの
「あなたが死んだ後
天国で
神様に何と言われたいですか?」
という質問に

スピルバーグは
「なすべきことをなしたな
と言われたい」
と答えたのにえらく感銘しました。

正しいかどうかは
どうでも良いんです

なすべきことをなせば。

というわけで
53歳になりましたが
今後共よろしくおねがいします。